2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

立トスてレテス・備忘録

1 :◆p132.rs1IQ:2019/02/22(金) 07:57:46.66 ID:YBvEGoQOF
◆p132.rs1IQ専用スレです..φ(_ _)m

952 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 11:10:56.41 ID:w7tFGWQtB
それが水中につき刺されば、水はたちどころに、蒸気になつ
て発散する。
 その夜、砂採り場の付近では、四十にあまる死体が、星あ
かりのもとに横たわつていた。どれもみな、だれと識別でき
ぬまでに、黒焦げに焦げている。ホーセルからメイベリーに
つづく公有地は、朝の光がおとずれるまで、生きているもの
の姿を失い、ただ赤々と、夜空に焔ばかりがかがやいてい
た。
 大虐殺のニュースは、チョバム、ウォーキング、オターシ
ョーの各町に、ほとんど同時につたわつた。ウォーキングで
は、悲劇が勃発すると、商店はいつせいに大戸をしめ、耳に
した話に興味をひかれた多くの人々が、ホーセル橋を渡り、
公有地へむかう街道の、生け垣がつづいているあいだをいそ
ぎだした。その日一日の仕事をおえて、めかしこんで遊びに
出ようとしていた大勢の若い男女が、この珍事の見物を愉し
もうと、つれ立つて足をむけたのは当然のことである。昏れ
ちかい街道ぞいに、笑い声がながれているようすが、諸君の
眼にもうかぶことと思う。

953 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 11:14:37.54 ID:PAd0HVEZL
 しかし、むろんそのときには、シリンダーの口がひらいて
いたことを知つているものは、ウォーキングの町にはほとん
どいなかつた。ただひとり、あわをくつたヘンダーソンが、
夕刊記事に間にあわせようと、特別電報をメッセンジャー・
ボーイにもたせて、郵便局へ走らせた程度だつた。
 これら見物人が、それぞれつれ立つて、公有地の広場にた
どりついてみると、何人かのグループが、興奮して、声高に
しやべりあいながら、砂採り場の上に回転している鏡をなが
めているところだつた。その場の興奮状態が、新しく到着し
た連中に、即座に感染したことはいうまでもない。
 八時半には代表団が殺されたのだが、そのころまでに、現
場にあつまつた人々の数は、おそらく三百を超えていたであ
ろう。そのほかに、火星人に近づくために、街道をはなれ
て、砂採り穴まですすんだ連中も何人かいる。これには、警
官が三人くわわつていて、なかのひとりは騎馬巡査だつた。
かれらはステントから指図されて、見物人の群れがシリンダ
ーに近よるのを防止するのに汗をかいていた。人があつまり
さえすれば、意味もなくうれしがつて、無鉄砲なまねをやり
たくなるやからが、どんな場合にも存在するものだが、ここ
でもまた、その連中がさわぎ立てていたからだ。

954 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 11:16:21.85 ID:PAd0HVEZL
 そうしたさわぎの発生をおそれたステントとオーグルヴィ
は、火星人の出現を見ると、すぐさまホーセルの兵営に電報
を打つて、異星から飛来した生物を、弥次馬の暴力からまも
るために、一個中隊の派遣を求めておいた。そのあと、ふた
りはあらためて、代表団の先頭に立ち、運命の行進についた
わけだが、群衆が瞥見したかれらの死の情景は、ぼく自身の
観察したところと、まつたく印象がおなじだつた。みどりの
煙が、三回、立ちのぼり、ひくく、こもつたような音のあ
と、焔が燃えあがつたのだ。
 しかし、弥次馬たちこそ、ぼく以上に危険なおもいを味わ
つている。ヒースの生い茂つた砂地の山が、わずかに熱線の
下部をさえぎつて、かれらの命を救つたのだ。パラボラ鏡の
角度が、わずか数ヤード上方にむいていたら、かれらは生き
てその経験を語れなかつたにちがいない。かれらの見たとこ
ろは、焔がひらめくとともに、人々が倒れだした。いわば眼
に見えぬ死の手が、草むらを燃えあがらせながら、夕暮れ
のうすらあかりをつらぬいて、かれらにせまつてくるのだつ
た。竪穴のなかにつづいていたひくい唸りが、たちまちつん
ざくようなひびきにかわると、熱線はかれらの頭上をかすめ

955 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 11:18:07.18 ID:PAd0HVEZL
て、街道に沿つて立ちならぶブナの木の梢を火につつみ、ま
がりかどに近い家の煉瓦をこわし、窓ガラスをくだき、窓わ
くを燃えあがらせ、破風の一部を粉々の状態にかえるのだつ
た。
 そして、それが音を立てて崩れ、火のついた木々があかあ
かとかがやくと、恐怖に打れた群衆は、かえつて足がすくん
で、逃げる分別も失つたらしい。小枝は火花を散らして、道
に落ちはじめ、降りちる葉の一枚一枚が、みな、焔をあげて
いる。帽子や服にも火がついた。つづいて、公有地から、か
ん高いさけび声があがつた。悲鳴と叫喚。騎馬巡査が一騎、
群衆を踏みわけるように、馬を飛ばしてきた。手をかかげ
て、大声にさけんでいる。
「こつちへくるわ!」
 と、女のひとりが、悲鳴をあげた。それが合図になつた
か、だれもがウォーキングにむけて走りだした。まえの者を
つきとばし、逃げまどう羊の群れのように、めくらめつぽう
に走つていた。道が土堤にはさまれ、せまく暗くなるあたり
では、群衆のあいだに争いがおこつた。そして、死傷者が出
た。すくなくとも三人、女がふたりと子供がひとり、無残に
も踏みつぶされ、恐怖と暗闇のなかにとりのこされた。

956 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:05:46.52 ID:PAd0HVEZL
宇宙戦争
H・G・ウエルズ
宇野利泰[訳]
p47
 思うに、その金曜日におこつた奇怪な出来事のうち、とり
わけ奇怪というべきことは、あれほど異常な事件が発生して
いるのに、われわれの社会秩序にみじんのゆるぎも見られな
かつた点だ。一般大衆は平常どおり行動して、その日常習慣
は、なんの変化もしめさなかつた。やがてはそれが、われわ
れの社会秩序を、根底からくつがえしてしまう結果になると
いうのに。
 その夜、かりにコンパスをもつて、ウォーキングの砂採り
場を中心に、半径五マイルの円を描いたとすれば、火星人さ
わぎの波及したのは、その円周内にとどまつた。

957 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:07:31.12 ID:PAd0HVEZL
 天文官ステント、自転車で見物にきていた三、四人、ロン
ドンからわざわざ駆けつけた男たち――この連中は、やがて
死骸となつて、公有地に横たわる運命になるのだが――その
身寄りはべつとして、円周内に住む人々で、この夜の火星か
らの新来者によつて、その感情や生活習慣に影響をこうむつ
たものは、ひとりもいなかつたといつてもまちがいではない
のだ。もちろん、奇怪なシリンダー状金属塊のうわさは、大
多数の人々の耳につたわり、雑談のタネにはなつたが、それ
もしよせんは、ドイツへ最後通牒を送るほどのセンセイショ
ンもひきおこさなかつたことは事実だつた。
 その夜ロンドンにあつては、飛来した異物が、徐々にその
蓋を開きつつあるというヘンダーソンの電文は、虚報である
と判断された。かれの勤務先である夕刊新聞社は、念のため
に、かれにたいして確認を求めてみめたが、返事さえなかつ
たことから――そのころ、ヘンダーソンはすでに死亡してい
たのである――特別版の発行はとりやめることに決定した。
 五マイルの円周内にしても、大多数の人々は無関心ですご
していた。ぼくが話しあつた男女については、前章でそのあ
らましを述べたが、この地方の住民のほとんどは、それと似
たりよつたりの状態で、いつもとかわりなく夕食をとつた。

958 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:09:20.01 ID:PAd0HVEZL
一日の仕事をおえた労働者たちは、家庭園芸のシャベルをに
ぎり、子供たちはベッドに送りこまれ、若い男女はそぞろ歩
きに恋をささやき、学生たちは机にむかつているのだつた。
 もちろん、この怪事件のうわさは、村の通りのそこかしこ
で、立ち話の材料となり、居酒屋では、新しいトピックとも
てはやされ、それを伝え聞いた連中、ないしは実際の目撃者
の話が、興奮の渦をひきおこした。それにつれて、あちこち
と走りまわるものもあらわれ、さけび声をあげるさわぎも聞
かれた。しかし、大部分の住民のあいだでは、働き、食べ、
飲み、眠るという日常生活のうごきに、いささかの変化もな
く、数百年来おこなわれているままにつづいていた――まる
で、火星などという惑星は、天空に存在していないかのよう
に。それは、ウォーキング駅にあつてもそうであり、ホーセ
ルやチョバムの村にあつても、おなじことがいえた。

959 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:11:00.96 ID:PAd0HVEZL
 ウォーキング乗換駅では、その夜おそくまで、列車が到着
し、発車し、その一部は待避線にひきこまれ、旅客たちが降
り立ち、つぎの列車を待機し、すべてがいつもとかわりなく
行われていた。もつとも、新聞売りの数はまし、町からきた
少年が、スミスのナワ張りをおかして、その日の午後の特報
をのせた夕刊を売つていた。貨車を連結する音、機関車が吹
きならすするどい汽笛にまじつて、火星から人間!≠ニさ
けぶ売子たちの呼び声がひびいていた。
 九時ごろになると、信じがたいニュースに興奮した人々
が、停車場構内にとびこんできた。しかしそれは、酔つぱら
いがわめき立てるほどの動揺もおこさなかつた。ロンドンの
方向にむかう旅客は、車窓の前にひろがる暗闇をとおして、
火の手がまだ、ホーセルのあたりにのこつているのを見るこ
とができた。かなり弱まつてはいるものの、なおあかあかと
夜空に映えて、うすい煙のヴェールが、星影をかすめてなが
れていく。しかし、それを見る旅客たちは、今夜もまた、野
火が燃えているなといつた程度にしか、考えてみようともし
なかつた。いくらかそれを気にしだしたのは、列車が公有地

960 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:12:46.42 ID:PAd0HVEZL
のはずれにさしかかつたときのことで、ウォーキングの村は
ずれで、バンガローが五、六軒、燃えているのだつた。三つ
の村の公有地に面したがわの家では、どこもみな、あかるく
灯をともして、夜があけるのを待ちかねているのがわかつ
た。
 公有地から、チョバムとホーセルへわたるそれぞれの橋に
は、不安な顔つきをした群衆が集まつて、個人々々の出入り
はあつても、全体の人数はすくなくなるようすがなかつた。
なかで、冒険好きのひとりふたりが、闇の公有地へしのびこ
んだ。火星人のすぐま近かまで匍いよつた形跡はあつたが、
二度と、生きてもどつてくるようすはなかつた。ときどき、
戦艦のサーチライトに似た光が、公有地を掃射してすぎた。
おそらくそのあとには、問題の熱線がつづいていると思われ
る。それをのぞけば、広漠たるこの公有地は、音もなく闇の
底に沈み、人のうごきはいつさい見られず、黒焦げの死体だ
けが、星空の下に、横たわっているのだつた。それはつぎの
日もおなじことで、ただ、ハンマーをたたくような音が、砂
採り場の堅坑からひびいてきて、多くの人々の耳をおどろか
すのだつた。

961 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:14:32.60 ID:PAd0HVEZL
 金曜日の夜における情勢は、以上述べたとおりである。年
老いたわれらの惑星、地球の膚に、毒矢のようにつき刺さつ
たシリンダーが、この事件の中心とはわかつていたが、その
猛毒がおそろしい効果を見せるまでにはいたらなかつた。現
場周辺は、黙々と声もない公有地で、各所に煙がいぶり、い
くつかの黒く汚れた物体が、ひきつつたような姿勢のまま、
あちこちに倒れている。草むらや立木が、いまだに燃えつづ
けているところもある。とはいえ、興奮の地域には限界があ
つて、そこを越えると、火の手はまだ延びてきていない。そ
のほかの世界では、太古以来の生命の流れが、なんの変化も
なく継続している。やがては、動脈静脈のへだてなく、われ
われの血液を凍らせ、神経を麻痺させ、頭脳を破壊しつくす
ことであろう戦争熱も、燃えあがる段階にまでは達していな
かつたのだ。
 その夜一夜、火星人たちはうごきまわり、ハンマーをふる
いつづけたらしい。眠りもやらず、疲れることも知らずに、
かれらが用意する必要のある機械を仕上げるのに努力してい
たと思われる。ときどき、うすみどりの煙が、星のあかるい
夜空に舞いあがつていた。

962 :◆p132.rs1IQ:2023/05/17(水) 17:16:15.00 ID:PAd0HVEZL
 十一時ごろ、歩兵一個中隊がホーセルの村をすぎて、公有
地に到着し、その入口に哨戒線をはつた。すこしおくれて、
第二の一個中隊が、チョバムを通過して、これは公有地の北
がわに展開した。その夜、もつとはやい時間に、インカーマ
ンの兵営から、何人かの将校が公有地の偵察に派遣されてい
たのだが、そのうち、イーデンという少佐が行方不明になつ
たとの報告があつた。連隊長自身、チョバム橋まで出張し
て、深夜にいたるまで、群衆からの情報を漁つた。軍当局
も、いまや事態の重要性に気づいたと思われる。つぎの事実
は翌日の朝刊で知つたのだが、その夜十一時、軽騎兵一個大
隊、機関銃二個中隊、さらに、四百名にあまる、カーディガ
ン連隊の歩兵が、オルダーショットを出発していたのであつ
た。
 十二時をすぎて、数分したとき、チャートシー・ロードや
ウォーキングにあつまつていた群衆は、またしても星がひと
つ、西北方の松林に落ちるのを見た。それは、みどりがかつ
た光彩を放つて、真夏の稲妻さながらに、音もなくきらめい
て消えた。これが第二のシリンダーだつた。

963 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:42:43.93 ID:5GfE0XDHB
インベーダー
キース・ローマー
平井イサク[訳]
p87
 スロールはしんしんと冷えこむ人影のない通りをぬけ
て、黙々と車をはしらせた。道端には、葉のおちた無気味
な木が、ものいわぬ衛兵のようにならんでいる。町並が切
れると、彼らは見すてられた葬儀場のような、古びた大邸
宅が立ちならぶ、生垣にはさまれたまがりくねった道にそ
ってはしっていった。
「ゲートウッド・ハイツだ」スロールはいささか誇らしげ
にいった。「町でも最高級の住宅地だよ。一八八〇年代か
ら、私の家はここに住みついてるんだ。今残っているの
は、もちろん、私だけだがね」彼は指さして、「あれがス
ロール荘だよ、あそこの岡の頂上にあるのが」空のうす明
りを背景に、無気味にそそりたっている輪郭を、デイヴィ
ッドは見た。ヴィクトリア朝風の塔の上の方から、一つだ
け灯りがもれている。

964 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:44:17.53 ID:5GfE0XDHB
 スロールは二本の石の門柱の間に車を乗り入れると、雨
にえぐられてあちこちに穴のあいた砂利道づたいに玄関へ
むかった。生い茂った雑草が車の下側をたたく。彼はくさ
った雨どいが弧をえがいてたれさがっている広い車寄せに
車をとめた。
「この家はちょっと手を入れる必要があるんだ」彼は車を
おりながら元気よくいった。「研究に時間をくわれちゃう
んで、ほったらかしにしてあるから……」
 デイヴィッドは車をおり、気味悪く迫る、つる草がは
い、ペンキがはげおちた家の正面を見あげた。スロールが
先に立って広い階段に案内する。のぼりきると、彼は足を
とめて、束ねた鍵をじゃらつかせていたが……
 板の折れる音が、デイヴィッドに警告をあたえた。さっ
ととびさがると、今、彼が足をのせ、体重をかけようとし
ていた段がくずれ、ポッカリと黒い口を開けた穴に、踏み
板が消える。こだまが、彼にその穴の深さをつげた。

965 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:45:53.58 ID:5GfE0XDHB
「ああ――注意しておくべきだったかもしれないな、ヴィ
ンセントさん」スロールがいった。「古い材木の中には、
くさってるのがあるんだ。手入れしとかなきゃいけなかっ
たんだが、手がまわらなくてね」
「気にしないでいいんだ、スロールさん」デイヴィッドは
さりげなくいった。「これでわかったから、もっと用心す
るよ」
 一瞬、二人の視線がからみあう。やがて、不意にふりか
えると、スロールは大きなドアを開け、中に入った。
 そこは、かつてははなやかだったに違いない壁紙に雨も
りのしみがうかび、かびのにおいがこもった、天井の高
い、広い部屋だった。家具はどっしりとしていて、古めか
しく、ほこりだらけ。スロールは色のさめた絨毯の上を横
ぎって、開いている両開きのドアに案内すると、灯りをつ
けた――部屋の真ん中の、ごてごてと飾りたてた大きなシ
ャンデリアの中で、一つだけポツンとついている電球。

966 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:47:34.49 ID:5GfE0XDHB
「書斎だ」スロールは使い古した深い皮張りの椅子、本の
びっしりとつまった壁、火の気のない煖爐にむかって手を
ふりながらいった。「坐ってくれ、ブランディーを取って
くるから。冷えこんでるから、何とかして火を起そうじゃ
ないか」
「酒はいらない」デイヴィッドはいった。「何か見せてく
れることになっていたんだぞ」
「わかってるよ」スロールはうっすらと微笑をうかべて、
「じゃ、よかったら、私の研究室へ来ないか」
「科学者なのか?」デイヴィッドは男の後について、ぐる
っとまわって暗い回廊に通じている装飾のついた階段にむ
かいながら訊いた。
「普通の意味での科学者ではないよ。しかし、組織的な方
法で、問題の解決にあたろうとしてきているんだ。データ
を分類し、それをあるきびしい試験にかけて――わかるだ
ろう?」
「まだわからないね」デイヴィッドはいった。「しかし、
すべてをはっきりさせてくれるものと確信してるよ」
「そうできるといいんだがね」スロールがつぶやく。「も
うすぐ……」

967 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:49:13.91 ID:5GfE0XDHB
 彼らはおどり場をすぎ、さらにせまい階段にかかった。
スロールは彫刻をほどこした手摺りをにぎり、肩ごしにふ
りかえって、
「長い階段で悪いな。下りる時はもっと楽だよ」
「一歩一歩をたのしんでるんだ」デイヴィッドはいった。
「何かに近づきつつあるっていうカンがするんでね」
「そのとおりだよ、ヴィンセントさん……まさにそのとお
りだ」
 のぼりきった所から、絨毯のない殺風景な廊下が左右に
のびていた。スロールがデイヴィッドにむかって先にいく
ように合図する。
「先にいってくれ」デイヴィッドはいった。
 スロールは鋭い視線をなげかけると、傍らをすりぬけ、
先に立って廊下のはずれにあるドアに案内した。彼は大き
な磁器の把手に手をかけて、
「このドアのむこうにあるものを見た人は、ごくわずかし
かいないんだ、ヴィンセントさん。覚悟はできてるだろう
な――肝をつぶさないように」
「できてるよ」デイヴィッドはいった。

968 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:51:08.63 ID:5GfE0XDHB
 スロールはぶっきらぼうにうなずくと、
「それじゃ……」彼がさっと大きくドアを開け、手をのば
して、スイッチを入れると、部屋中に煌々たる明りがあふ
れる。デイヴィッドはすすみ出ると、スロールごしに部屋
をのぞきこんだ――が、その場の光景に全身が硬直してし
まった。白タイルの壁、磨きあげられた床、螢光灯の下に
おかれた、長さ六フィートの細い詰物入りの台、その傍ら
に同じ大きさのステンレスのケース、ピカピカの器具がず
らりとならんでいる、詰物入りの台よりは小さいテーブ
ル。一方の壁面には、さまざまな装置や格子窓、何列にも
ならんだボタンやパイロット・ライトのおさまったパネル
がある。
「おどろいたかね、ヴィンセントさん?」スロールはおだ
やかにいった。
「手術室みたいだな」デイヴィッドはいった。

969 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:52:44.42 ID:5GfE0XDHB
「うっかりいい忘れていたけど、私は外科医としての教育
をうけたんだ。医者として働いたことはないんだがね――
誤解のないように断っておくが。そういったことを管理し
ている機関が、私が免状をとれないように手を打ったん
だ」最後の方になると、スロールの声は荒々しくなってい
た。「とはいっても、経験の方は充分に――」彼は途中で
言葉を切ると、「しかし、あんたの聞きたいのはそんなこ
とじゃなかったな、ヴィンセントさん?」
「僕はわれわれの間にいる異星人のことを聞きたいんだ」
デイヴィッドは相手の顔を凝視(みつ)めながらにべもなくいっ
た。
「気の毒だが、私は何もかも腹蔵なくあんたに話したわけ
じゃないんだ」スロールはいった。「私は、もし侵入者が
この地球にいるものなら、われわれの組織に介入すること
によって、しっぽを出すかもしれないという結論に達し
た、といったんだ」
 デイヴィッドはうなずいて、「かもしれないな」

970 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:54:22.68 ID:5GfE0XDHB
 スロールが彼の方にかがみこむ。「もう出してるんだ
!」彼はおどかすようにいった。そして、歯をむいて、残
忍な笑いをもらすと、「奴らはすべての地球人をバカもの
として軽蔑してるんだ――何もわからない、だまされやす
いバカものとしてな! しかし、奴らは間違ってるんだ、
ヴィンセントさん! 私はだまされなかったんだ! 一度
として、連中の中のいかなる奴にもな! 自分の眼でたし
かめてみろ!」すばやい身のこなしで、スロールはステン
レスのケースのかぶったテーブルの足もとにあるレヴァー
を倒した。細長い貝殻のように、真ん中で割れているカヴ
ァーが両側に開き、死後長時間を経過した男の、うつろに
見開かれた眼、肉がおち、やせこけた胸、そしてひからび
た脚が現れる。

971 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:56:06.11 ID:5GfE0XDHB
 ひからびて茶色っぽく変色した肉、切り開かれた胸の、
ぞっとするような傷、脳天をきれいに切りおとされた頭、
骨だけになった手、切りきざまれた得体のしれないものな
どに対する反応を顔に出さないようにつとめながら、デイ
ヴィッドはこのおそるべき光景にじっと眼をそそいだ。
「これが頭がいいとうぬぼれていた奴の最期なんだ」今
や、スロールの声には一人北叟笑んでいるようなひびきが
あった。切りきざまれた解剖用の死体ごしに、その眼が野
獣のそれのようにギラギラと輝いている。「奴はここへ…
…」スロールは言葉を切って、突っぱった唇から忍び笑い
をもらすと、「私をわなにかけようとしてやってきたんだ
――この私の家でな、あのバカが! われわれの知能を、
奴らはあくまでも低く見てるに違いないぞ、ヴィンセント
さん! 私について、この私の秘密の部屋へまで来て、こ
の私の――しかし、そのことは、あんまりいうべきじゃな
いな。最後には、奴もどちらが上手(うわて)かを知った、というだ
けで充分だろう」

972 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:57:39.82 ID:5GfE0XDHB
「〈宇宙監視・交信協会〉の会合で彼に眼をつけたのか?」
デイヴィッドはさりげない口調で訊いた。
「とんでもない。〈宇宙の光の子〉の集会さ。奴は私に…
…」――また忍び笑い――「星座の内的意義についておし
えようと申し出たんだ。で、私は自分の天文台をもってる
っていったんだよ――そうしたら、そのかわいそうなバカ
ものは、だまされているのはこの私だと思いこんじゃった
わけさ!」
「それで、奴を殺したんだな」
「もちろん。奴はわが地球に対する脅威だったんで――」
「そして、解剖した、と」
 スロールはうなずいて、「解剖学的な相違を発見するた
めにやったんだ。私の研究の成果が発表されれば、政府と
しては、異星人の確認がしやすくなるわけだからな」

973 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 07:59:19.45 ID:5GfE0XDHB
「で、彼は……異星人だったのか?」
「もちろんさ! じゃなかったら、私が殺すわけがないだ
ろう?」
「どういう風にやったんだ――殺し方のことだぞ?」
「これでやったのさ」スロールの手がケースのかげから現
れ、その手ににぎられた銃身の短いリヴォルヴァーがピッ
タリとデイヴィッドの胸にむけられる。
「で、今度は……?」デイヴィッドはおちつきはらってい
った。
「今度は――あんたの番なんだ、ヴィンセントさん!」ス
ロールは前かがみになり、唇をなめると、「正体を見破ら
れずにすむと思ってたのか――とたんに見破られずに?
あらゆるちょっとしたことの端々に、しっぽが出ていたこ
とに気づかなかったのか? この私をだませると、ほんと
うに思ってたのか、この間ぬけめが?」
「なぜあなたをだますことがあるんだ?」デイヴィッドは
おだやかに訊いた。

974 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:00:56.63 ID:5GfE0XDHB
「いいかげんにお芝居をやめたらどうだ、ヴィンセントさ
ん――その名前もでたらめだろうがね。どうせほんとはブ
ズズクフルクスとかズンクルンクスとかいうんだろう!
お前の正体はわかってるんだから、とぼけてもむだなん
だ! 私には、あのぞっとするような角や、牙のはえた口
や、なめし皮みたいな翼が見えるんだ! お前のまわりに
は、超自然な放射物がもやもやしてるんだ! 私はお前の
変装の奥にある――」
「どんな変装をしてるっていうんだ?」
「お前が今かぶっている肉体の仮面だ! そんなことして
もむだなんだよ――私にはわかってるんだから! 地球は
すでに遠い世界から来た異星人に侵されているんだ! そ
してお前は――お前は奴らの一人なんだ」
 デイヴィッドは相手の眼をじっと凝視(みつ)めながらうなずく
と、
「あんたは頭がよすぎて、とてもわれわれの手にはおえな
いってことがわかったよ、スロールさん。地球人がみん
な、あんたみたいに頭がいいということがわかっていた
ら、われわれもこんなことはしなかっただろう」

975 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:04:36.36 ID:5GfE0XDHB
 一瞬、スロールの表情がゆらぐ。狂暴な笑いのかげに、
何か別のものがうかんだのだ――小さな、怯えたようなか
げ。やがて、彼はピストルを冷たくふった。
「そんなことはどうでもいいんだ。ところで、お前を殺す
前に――情報がほしいんだ」スロールは言葉を切ると、不
意にからからにかわいてしまった唇をなめて、「お前はど
こから来たんだ? 何をしにここへ来たんだ? お前は―
―」彼は思いつめたような表情をうかべ、ピストルでデイ
ヴィッドをつつくと、「私が医大をしくじったのは、お前
のせいだったのか? 私の結婚の申し込みを断るように、
グウェンドリンにいったのは、お前だったのか? 私の父
に告げ口をして――」彼は不意に言葉を切った。その手が
震えている。「もちろん、みんなお前の仕業に違いないん
だ」彼は不意に抑揚を失った声でいった。「私はどこまで
盲だったんだ。私の事業を失敗させたのもお前だし、私の
財産に対する税金をあげたのもお前だし、アップル・サイ
ダー・ヴィネガー系の大統領候補のノミネーションで私を
負かしたのも、お前なんだ! それに――それに――」

976 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:06:12.57 ID:5GfE0XDHB
「それだけじゃないぞ」デイヴィッドはいった。「われわ
れはこの家を包囲しているんだ。ずっとあんたを見張って
たんだよ、スロール。気がつかなかったのか?」彼は無気
味な微笑をうかべて、「彼らは、僕がここにいることを知
ってるんだ。彼らが僕をここへよこしたんだからな――あ
る目的のために」
「その……その目的ってのは何だ?」スロールは窓ぎわま
で後ずさりして、すばやく外の様子をうかがった。その瞬
間に、さっとデイヴィッドの手がのび、傍らのテーブルか
らメスをつかむ。
「たいへんだ!」スロールの声は震えていた。「車がある
ぞ――あそこの道端にかくれてるんだ……」彼はさっとデ
イヴィッドの方にむきなおると、「しかしお前は、生きた
ままここから逃れるわけにはいかないんだ――」
「待て!」デイヴィッドはたたきつけるようにいった。
「僕はある目的のために来たといっただろう。それを聞き
たくはないのか?」
「私を殺すためさ」スロールがあえぐ。「私はお前たちに
とって、あまりにも危険な存在なんだ。お前たちには、私
を亡きものにして――」

977 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:07:56.70 ID:5GfE0XDHB
「バカな」デイヴィッドはいった。「われわれにはあんた
が必要なんだ。あんたほどの頭脳の持ち主は、もったいな
くて殺せないんだよ。それなのに、あんたの仲間の地球人
には、それがわからないんだ。われわれのために、力をか
してくれないか、スロールさん? もし協力してくれれ
ば、この地球が征服された暁には、あんたはこの惑星の大
総督になれるんだぞ」
「だ――大総督? しかし、あんたはうそをついてるんだ
――わなにきまってるんだ!」
「あんたを殺したいんだったら、先週だって殺せてたんだ
――おぼえてるか?」デイヴィッドは頬を汗が流れるのを
感じた。彼は部屋をはさんで向いあっている男が、今はか
ろうじて彼をつなぎとめてくれている糸が切れて、いつい
かなる瞬間にピストルを乱射し始めるかもわからないまま
に、その場その場の思いつきで、何とか間をもたせている
のだった。
「先週?」スロールは眉をひそめた。「というと、あの橋
でか?」
 デイヴィッドはうなずいて、「そうさ」

978 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:10:11.75 ID:5GfE0XDHB
「あの時は、たしか――しかし……」
「その前の時だって同じさ」デイヴィッドはいった。「あ
んたが事態に気づいているということを、われわれは知っ
ていたんだ。われわれはわざと、どういうことになってい
るのかを、ちらっとあんたに見せたんだ。私がここへ来た
目的は、あんたを殺すためじゃないってことをわかっても
らうためにな」
「しかし、私があんたをここへつれてきたんだぞ……」
「そうかな、スロールさん?」デイヴィッドは微笑をうか
べて、「キャブリトを殺したのもあんただし、危うく僕に
当りそうになったあの梁を落したのも、あんただろう?」
「いや――それは違う。しかし……ああいうことがあった
ということと……あの下に車がいるってことは……」
「われわれは大挙してここへ押しよせて来ているんだ」デ
イヴィッドは冷やかにいった。「あんたとしては、決心を
かためる時がきたってわけだぞ、スロール! われわれに
味方するか――それとも、誰にも認められず、自分の仲間
に軽蔑され、変人として見くだされながら、たった一人で
戦いつづける方をえらぶか?」

979 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:11:56.24 ID:5GfE0XDHB
「断ろう」スロールはいった。ピストルを突き出した彼の
顔にうかんだ笑いは、こわばり、ゆがんでいた。「私は敗
残者かもしれない――しかし、わが地球に対する裏切り者
では、けっしてないんだ!」
 デイヴィッドが横に身をおどらせ、死体の容器にぶつか
って、スチールのケースとそのぞっとするような中味が突
きとばされるとともに、銃声がとどろきわたる。最初の弾
丸は金属に当ってはねかえり、二発目がデイヴィッドの頭
から一インチはなれた木の部分にしっかりとくいこんだ―
―その時、スロールがしわがれた悲鳴をもらす。重いケー
スが彼を後ろに突きとばし、頭をダイヤルのならんだパネ
ルにたたきつけたのだ。デイヴィッドが立ちあがると、体
の上に横ざまにのっている死体の手にふれるのをさけよう
として、スロールが苦痛にゆがんだ顔をそむけているのが
眼に入った。
「あ……脚が」スロールがささやく。「お前のおかげで、
脚が折れちゃったんだ」

980 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:13:30.39 ID:5GfE0XDHB
 デイヴィッドは怯えあがっている男をとびこえて壁のス
イッチへかけよると、灯りを消した。暗闇の中で、スロー
ルの泣き声を聞きながら窓ぎわへ行き、雑草ののびた芝生
と、道路との境ののび放題の生け垣にむかってほの白くう
かびあがっている道を見おろす。小さな黒い車がとまって
いるのが、星の光を反射しているフロント・グラスでかろ
うじてわかった。
「あれは誰の車だ」デイヴィッドはたたきつけるように訊
いた。
「さっき……あんたは……」
「さっきはお互いにわけのわからないことをさんざんいい
あったんだ」デイヴィッドはいった。彼は重いケースをス
ロールの脚からはずし、その傍らにひざまづいて、「よく
聞くんだぞ、スロール――俺は侵入者じゃないんだ! 俺
があの集会に行ったのは、あんたと同じ理由からなんだよ
――奴らの手がかりをつかむために行ったんだ!」
「じゃ……あんたは……奴らがこの地球に……われわれの
間にいると信じてるんだな!」スロールの声ははげしい痛
みにかすれていた。

981 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:15:05.64 ID:5GfE0XDHB
「われわれは二人とも、重大な危険にさらされていると信
じてるよ」デイヴィッドはすばやくいった。「どうやら、
ここまで後をつけられたらしいんだ。だから――」
「しかし――あのキャブリトは……」スロールはいった。
「あんたが……射ったんじゃないのか?」
「俺じゃない――そして、あんたでもないんだ! もう一
人、別の奴がいたんだ、スロール! あの時は、あんたも
奴らの仲間かと思ったんだが、今はそうは思っていない。
あんたは誰一人殺してないんだ」
 スロールの眼がわずか数インチはなれたところにころが
っている、ぞっとするような死体の顔、黄色くなった歯に
ひからびた唇がへばりついている死体の顔にむけられる。
「彼を……忘れてるんじゃないか?」
「それは医学の研究に使う解剖用の死体なんだ。下側を見
れば、フォルマリン・タンクの底に長い間横たわっていた
ためにできた傷があるのがわかるよ。悪ぶって俺を脅かそ
うなんてことはやめるんだ、スロール! 俺たちには重大
な危険が迫ってるんだぞ! そして、俺にはあんたの助け
が必要なんだ!」

982 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:16:33.70 ID:5GfE0XDHB
「そ……そんなこと、うそだ!」ふたたびおそいかかって
きた恐怖に眼をギラつかせて、スロールはいった。「あん
たは先週、あの橋で起ったことも知ってるし、その前の、
木のところで起ったことも……」
「調子をあわせて、あんたをごまかしてただけだ」デイヴ
ィッドはいった。「あんたがピストルを突きつけてたんで
な、忘れたのか? 俺としては――」
「一番まずいことをするほかなかったってわけだ!」スロ
ールはあえぎながらいった。「私はけっして仲間の地球人
を裏切るようなことはしないぞ! もうお前の仲間がお前
を助けようとしても、手おくれなんだ! この家からは、
絶対に生きては出ていけないぞ! わながしかけてあるん
だからな、バカヤロー! 侵入者(インヴエイダー)をつかまえるために、わ
ながしかけてあるんだ! そしてもう……そしてもう…
…」彼の声が次第に低まり、うめき声にかわった。眼がつ
りあがり、一点を凝視(みつ)める。頭がぐらっと横に倒れた。デ
イヴィッドが負傷(けが)をした男の脈を取る。脈は弱々しく、不
規則に搏っていた。

983 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 08:18:09.58 ID:5GfE0XDHB
 デイヴィッドは立ちあがった。彼の考えは二、三のこと
に関してはピッタリとあたっていたが、他のことに関して
は、まったく見当違いだった。そして、その誤りは致命的
なことにもなりかねないのだ。下にとまっているあの車に
しても、あるいは何の関係もないものかもしれなかった
が、オペラ・ハウスの裏の路地の入口にとまっていた車に
ひどくよく似ている。さらに、スロールの警告――あれ
も、あるいは錯乱した心の生んだたわごとにすぎなかった
のかもしれない。しかし、もしほんとうだとしたら……
 デイヴィッドが窓に背をむけかけた時、ガラスの割れる
音がして、背後の天井に弾丸があたるにぶい音がした。彼
はさっと床に伏せた。銃声は聞えない。脅(おびや)かすように静寂
が迫ってくるだけだった。
 これで疑問が一つ解決したぞ――彼は思った。さて、生
きてこの家を出られるかどうか、やってみるか……

984 :◆p132.rs1IQ:2023/05/19(金) 10:13:09.80 ID:5GfE0XDHB
インベーダー
キース・ローマー
平井イサク[訳]
p173
 近くで、声が聞える。
「……わけがわかりませんね、中尉殿。どこかのとぼけた
野郎が戦車を盗んでこっちへむかったって知らせが入った
んで、追いかけてきたわけでしょう。奴が見つかってもう
こっちのものだと思ったら、流れ星が空いっぱいにふって
きたんですよ! そうしたら、あの――とにかくああいう
ものが現われやがったんだ! 俺はこの眼で見ていなが
ら、幻覚じゃなかったとはまだ断言できないような状態な
んですよ――お訊きしますがね、中尉殿、俺たちはあそこ
で何を見たんです?」
「俺は何にも見とらんぞ、軍曹」頑固そうな声がかえって
くる。「お前もバカじゃなかったら、そうしとくんだ」

985 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 00:58:19.04 ID:d4qgUmKHf
呪われた村
ジョン・ウインダム
林 克己[訳]
p101
 ゼラビーはしみじみと相手の顔をみつめた。リーボディ氏
はなおも話しつづける。
「あのこどもたちはいつたい何者なのでしよう? 妙な色の
目でひとを見る、あの目つきはどこか一風変つているじやあ
りませんか。彼等は――たしかに見知らぬ人(ストレンジヤーズ)ですね」ここで
ちよつと言い淀んだが、また言葉をつづけた。「まあ、こう
いう考え方をあなたに押しつけるわけではありませんが、こ
れはおそらく何かの試験(テスト)にちがいない。何度考えても、わた
しはこういう結論に戻らざるを得ないのです」

986 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 00:59:55.58 ID:d4qgUmKHf
「しかし、何の試験(テスト)をだれがやつたのだろう?」と、ゼラビ
ーは言う。
 リーボディ氏は頭を振つて、
「それは分らない。恐らく分らずじまいでしよう。試験(テスト)の結
果だけはこうして見せられているけれども。そうして、こう
いう立場に追いこまれたにはちがいないが、いくらでも拒否
することはできたはずです。それを拒否しなかつたのは、わ
れわれが自身で解決すべき問題として受け入れたからだと思
います」
「それが正しい態度だつたと思いたいものですな」
 リーボディ氏はゼラビーのこの言葉にびつくりして、相手
の顔を見た。
「では、何かほかに――?」
「分りません。相手が見知らぬ人(ストレンジヤーズ)では――分るはずがないじ
やありませんか」

987 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 14:27:25.28 ID:d4qgUmKHf
バッド・エデュケーション
ペドロ・アルモドバル
佐野 晶[訳]
p5
 真っ白なキャンバスに絵を描くのは苦手だった。会ったこともない人物を創造し、見た
こともない場所を空想し、ゼロから物語を紡ぐことができない。まったくの虚構はすべて
が可能だが、同時に空疎であった。彼にとってそれは魂のこもらないお人形ごっこであ
り、吠(ほ)え声ばかりの怪獣ごっこなのだ。ではエンリケ・ゴデはいかにして映画を作るの
か? 彼は単なる映画監督ではない。作家だ。企画から脚本、音楽、撮影、編集、すべて
を手がける。手がけずにはいられないのだ。
 一九八〇年。エンリケは初めてマドリードの中心街にオフィスを構えた。それはこの三
年間に撮影した三本の長編がスマッシュヒットを続けたお蔭(かげ)で手に入ったものだ。オフィ
ス奥のエンリケの個室には大きなデスクと彼専用の真っ赤な革張りのオフィスチェアがあ
る。彼はそこに座ってハサミを手にしながら新聞を読んでいた。身体つきは引き締まって
おり、細身のピンクのシャツに黒のスラックスがよく似合っている。
 彼のデスクの向かいには映画製作者のマルティンが座っていた。アロハシャツを着た坊
主頭の大柄な男だ。年齢は四十代の半ば。迫力のある鋭い目つきをしている。

988 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 14:29:02.56 ID:d4qgUmKHf
「寒波による最初の犠牲者が出た=v
 エンリケが新聞の記事を声に出して読み上げる。少女のように小さな口と薄い唇だ。彼
の細面の顔の中のパーツはどれも繊細だった。鼻筋の通った細い鼻、首筋に届く長さの緩
いウエーブのかかった濃い色の髪。ただ濃い茶色の目は大きい。瞳(ひとみ)はまるで少年のように
澄んでいたが、人を見据える時には力強さがあった。人の心の中を見通してしまいそう
な。そして笑うとシニカルな印象を与えた。
 エンリケが読み上げた新聞は昨年のものだった。彼は忙しくて読み逃した新聞は決して
捨てずにストックしていた。
「高速四号線でバイクに乗った男が運転中に凍死した。だが死後もバイクは九十キロも
走り続けた=v
 エンリケの瞳が夢見るように輝く。
「停止命令を無視したために二台の白バイが追跡した。しばらく並走したがまったく反
応しないために死亡していると判断し……
「不気味だ」
 マルティンがつぶやいた。ストレートな反応だ。彼の意見がエンリケの意を強くした。
「いや、最高の映像だ」
 エンリケの目はさらに輝きを増している。

989 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 14:32:21.35 ID:d4qgUmKHf
「凍りついた草原をバイクで走る死んだ若者」
 マルティンがうなずく。
「そして彼を騎士のようにエスコートする白バイ警官たち」
 エンリケの言葉にマルティンが目を見開く。脳裏にその映像が浮かんだのだろう。その
反応にエンリケは興奮した。マルティンに質問してみる。
「酷寒の夜にその青年はどこに行こうとしてたんだ?」
 マルティンの答えを求めていたわけではない。マルティンもそれは承知だ。余計なこと
は言わずにエンリケの答えを待つ。
 エンリケは唇を噛(か)み締めて、想像力を羽ばたかせる。つかめそうだ。何か大きなものが
その先にはある。ああ……。
「会いたい人がいたんだな」
 エンリケの瞳には尋常ではない輝きがあった。目の前のマルティンの姿も映ってはいな
い。つぶやくようにエンリケが言った。
「ドラマだよ」
 恐れと畏(おそ)れがエンリケを襲う。自分にならモノにできるという自負、同時につかみきれ
ないもどかしさに不安がよぎる。物語が展開していくかもしれない。しかし弱いか……。
エンリケはハサミを手にして記事を切り抜いた。スクラップブックに貼(は)り付けるためだ。
それでエンリケは少し気持ちが楽になった。少なくとも苦しむのは先延ばしにできたの
だ。そうした記事はスクラップブックの中はもちろんデスクの上にも山積みになってい
た。

990 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 14:34:06.64 ID:d4qgUmKHf
 彼は身の回りに転がっている事物から物語を紡いでいく。一九七〇年代に八ミリで短編
映画を撮り始めた頃から変わらない手法である。グラムロック、ダンス、美しい家具、絵
画、同性愛、女装趣味、異性愛。登場するのは犯罪者、犯罪ギリギリの人々、破戒僧、破
戒尼、アブノーマルな性愛者たち……。彼の身近にいた人々、そして彼自身だ。誰も裁か
ないし、裁かれることもない。彼らがタブーに挑み、せめぎ合い、憎み合い、愛し合う。
やがて観客の喉(のど)元にナイフを突きつける瞬間が訪れる。エンリケの鋭い視線は人々がいつ
の間にか抱いている形骸(けいがい)化したモラルという名の偏見を看破する。それだけではない。笑
いと愛と哀しみさえ感じさせる。現実の混沌(こんとん)から飛翔(ひしよう)し、物語を示唆に富んだ寓話(ぐうわ)にまで
昇華させるのだ。その集大成とも言える長編デビュー作はカルト人気を超えて彼自身が予
想しなかったほどの多数の人々に支持された。以降の二作もやはり彼の身近にあった事物
に取材した作品であった。この三作はゴデ三部作として好意的な批評と観客の熱狂をもっ
て迎えられた。
 だがそこから彼の創作活動はぴたりと止まり、スクラップブックばかりが厚くなってい
った。大衆に迎合しようと思ったことは一度もない。そう思ったとしても彼にはできなか
っただろう。彼は自分の欲望の奴隷であった。映画を作り得る情熱を掻(か)き立ててくれるテ
ーマがなければ決して撮影には入れなかったのだ。トップスターを何人も使えるほどの出
資の申し出が各方面からあったが、彼にはテーマがなかった。撮りたいシーン、語りたい
セリフがなかった。スターの笑顔など誰にでも撮れる。

991 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 14:36:55.50 ID:d4qgUmKHf
 オフィスのチャイムが鳴ったがエンリケは気づかなかった。テーマを探していたわけで
も、凍死した青年のことを考えていたのでもない。ほとんど無心になってその記事をスク
ラップブックに貼り付けていたのだ。何も考えずに済む作業のなんと甘美なことか。つい
つい夢中になる。
「僕が出るよ」
 マルティンが身体に似合わず身軽に立ち上がって入り口のドアに向かった。
「どなたです?」

992 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 16:42:31.31 ID:9YBvN8WwA
スピード
グレアム・ヨスト
石田 享[訳]
p13
 ダウンタウンの一角にそびえる高層オフィスビル――その四六階にある会議室の窓
からはスモッグにかすむロサンゼルスの広大な街なみが見渡せた。
 ちょうど会議が終わったところだ。
「きょうはここまで。ご苦労さん」
 パサディナ旅行社の最高経営責任者ダグラス氏が告げた。
 ダグラス会長は若手役員の出世頭マーティーと握手をかわした。
「さすがだな、マーティー。案外イケるかもしれんぞ」
 いまやゾンビタウンと呼ばれているロサンゼルスにいかにして観光客を呼び戻すか。
 これが会議のテーマだった。
 それならいっそのこと危険を売り物にしたツアーを催したらどうだろうとマーティ
ーは提案した。
 日本人とかドイツ人とかのんびりした観光客に「管理された危険」を疑似体験させ
ようというのである。
 やぶれかぶれの爆弾企画だが、沈滞気味の旅行業界に喝を入れるにはいいかもしれ
ない。

993 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 16:44:10.09 ID:9YBvN8WwA
スピード
グレアム・ヨスト
石田 享[訳]
p46
「近づくんじゃねえ。こいつを押したら、貴様の相棒は粉々に吹き飛ぶ。掃除がたい
へんだぞ」そしてハリーに声をかけた。「死ぬ覚悟はできてるか?」
 ハリーは吐き捨てるように言った。
「くたばれ(フアツク・ユー)!」
「国のために捧げる命が一つしかなくて残念だ。知ってるか、これ? 二〇〇年前、
イギリス軍に吊された若者が残した辞世の言葉だ。ところがいまどきのおまわりとき
たらファック・ユー≠ネんて汚い言葉を口にするていたらくだ。情けないご時世だ
ぜ、まったく!」

994 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 20:49:34.93 ID:aF6+V4yPa
ダンテズ・ピーク
デューイ・グラム
伏見威蕃[訳]
p72
 ハリーは、森にかこまれた湖岸をひとりで歩きだして、枯れた植物や水棲動物の屍骸を捜
した。そうしたものの存在は、地震活動によって湖の底で異常なレベルの二酸化炭素が放出
されていることを示している場合がある。
 二酸化炭素は、火山学者にとって赤旗である。大気や動物の呼吸および代謝の正常な構成
要素である二酸化炭素は、大量にあれば生命を奪う。血中に炭酸が生じ、死にいたる酸毒症
を引き起こす。地中に大量の二酸化炭素があると、やはり酸素を欲する樹木の根が、動物や
人間とおなじように窒息する。つぎに来るときは地中のガスを測定する装置を持ってくるこ
と、とハリーはメモした。
 彼は、さらにあたりの風景に目を配った。魚が何匹か浮いており、その先には藻(も)のたぐい
が枯れて浮かんでいる。岸では樅(もみ)が何本か倒れる寸前だった。ハリーは腰をかがめ、岸辺の
露出した地面を調べた。虫や動物が棲む穴がない。ハリーの考えでは、それらが存在しない
のは火山活動によって二酸化炭素が放出している可能性を示す徴候だった。まだ確実なこと
はいえない。そうはいっても……。
 その小さな湖の深い水をのぞきこみながら、ハリーは、それに似た美しくまったく無害そ
うな青い湖から二酸化炭素が一気に噴出した、じつに奇怪なおそろしい瞬間のことを思い出
していた。

995 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 20:51:25.05 ID:aF6+V4yPa
 それは十年前、アフリカのカメルーンのナイオス湖という、きれいな青い火口湖でのこと
だった。何累代ものあいだ底から動かずにいたガスをふくんだ重い水が、小さな火山性の地
震で揺さぶられた。冷たい水が底からあがってくるとともに、水圧で抑えられていた二酸化
炭素が泡となり、煙突のような形にまとまって、すさまじい勢いで水面めがけて上昇した。
ガスの泡が水面を破り、百五十メートルという信じられないような高さまで水柱が噴きあが
った。死の霧が湖と付近一帯をおおい、千人の人間と牛その他の動物の命を奪った。遠隔地
でもあり、生存者がほとんどいなかったので、知らせが伝わるまで何週間もかかった。
 そういえば去年の冬、ハリーは、故郷の近くで森林警備隊員が山間部のパトロールをおこ
なっている最中に二酸化炭素の仕掛け罠(ブービートラツプ)に出くわしたという奇怪な話を聞いたことがあった。
カリフォルニア中部のロング・バレーのカルデラに大きくひろがっているマンモス山は、四
百万年ずっと活動をつづけていると見なされている火山で、かなり研究も進んでいる。その
眼鏡をかけたずんぐりした森林警備隊員は、激しい吹雪から避難するために、ほとんど雪に
埋もれかけた小屋へ行った。跳ねあげ戸からもぐり込み、小屋のなかにはいった。息ができ
なかった。脈拍が二百まであがった。目の前に星がちらついた。どうにかよじ登り、入口か
ら体を半分出した格好でしばらくのあいだ深く呼吸して、ようやく回復した。
 それが二酸化炭素の狂暴な罠(わな)である。無色、無臭で空気より重い二酸化炭素が、地中に隠
れた火山からにじみ出し、小屋の床のあたりにたまって、雪のために封じ込められた。あと
二回ぐらい呼吸していたら、その森林警備隊員はたちどころに死んでいただろう。
 ハリーが視線を転じると、レイチェルが子供たちと遊んでいた。いま、こうした話を彼女
にする必要はないだろうと思った。彼はランドクルーザーにひきかえした。

996 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 21:17:18.61 ID:aF6+V4yPa
ダンテズ・ピーク
デューイ・グラム
伏見威蕃[訳]
p194
 大きなオレンジ色の太陽が西の葡萄(ぶどう)色の山々に姿を消すと、いつものように晩がたの寒気
がダンテズ・ピークの町をくるんだ。カスケード山脈の上に出ている雲は、痣(あざ)を思わせる紫
と黄色だった。一年に何回も見られないようなすばらしい夕焼けで、翌日が穏やかな晴れた
一日になることをうかがわせた。
 遅れた数人が、〈坑夫(マイナーズ)のふるさと〉の旗の下の両開きの扉を通り、急いでハイスクールの
体育館にはいっていった。
 マイクを用意した舞台では、レイチェルが事情説明を終えようとしていた。ハリーが、保
安官や水道局長とともに舞台にいて、体育館に詰めかけたひとびとに話をする順番をそれぞ
れが待っているところだった。
「――自分の家を出るというのは、考えるのもつらいことだと思います」レイチェルがつづ
けた。「しかし、いますぐにそうするのが、責任ある行動です。それに、仮になにも起こら
なかったとしても、あとで後悔するより無事なほうがいいでしょう」
 聴衆がまわりの人間のほうを向いて、大声でしゃべったり、意見を交わしたり、たいへん
な騒ぎになった。それだけ聞けばじゅうぶんと考えたものたちが、ドアに向かいかけた。

997 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 21:18:58.01 ID:aF6+V4yPa
 郡の老人医療施設の看護婦見習いのスーザンが、前のほうで席を立った。「待っていなけ
ればならないの?」騒音よりひときわ高い声で質問した。「つまり、いますぐに避難したい
としたら?」
 聴衆が静かになった。
「もちろん、待っている必要はないわ、スーザン」レイチェルがいった。「いつでも好きな
ときに出ていっていいのよ」
 スーザンが、すこし当惑した様子で笑い、着席した。
 事情をすっかり知るために最前列に近い席にいたエリオット・ブレアは、その言葉の意味
をはっきりと察した。ウォレルに、聞こえよがしにささやいた。「大騒ぎになる前に行くよ」
立ちあがり、通路をすたすたと歩いて、出口に向かった。
 ドクター・フォックスが、口惜(くや)しそうにむっつりした顔でブレアを見送っているレス・ウ
ォレルのほうを向いた。「これで安楽な老後もパーね」
 ウォレルが、毒のある視線を彼女に向けて、立ちあがり、うつむいたままブレアのあとを
追った。これがおれの人生だ、と考えていた。あしたブローカーに電話して、コンピュータ
で計算させよう。ドカーン! みんな破産だ。
「われわれが出ていったあと、家や店は守られるの?」カレン・ポープが叫んだ。「盗難を
ふせぐ手だては?」
「州兵軍に召集がかけられています」レイチェルがいった。「午前零時に到着の予定です」
 質問がとぎれたとみて、レイチェルは向きを変えた。「では、ハリー・ドールトン博士に
説明を引き継いでもらいます」

998 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 21:20:42.63 ID:aF6+V4yPa
 ハリーが、演壇に歩み寄り、マイクを持った。上を向いている顔を見まわした。もう名前
も知らない群集ではない――名前を知っているもの、顔見知りがおおぜいいる。
「はっきり申しあげます」ハリーは、力強い声でいった。「これは単なる予防措置です。け
っしてパニックを起こしては――」
 ハリーの目の前の水差しの氷がカタカタ鳴った。ハリーは、そこから目が離せなくなった。
まるでひとりごとのように、小声でつづけた。「――なりません」
 体育館が揺れた。たいした揺れではなかったが、緊張している聴衆の注意を喚起(かんき)するには
じゅうぶんだった。

 臨時観測所では、書類を見ていたテリーが、怪訝そうに顔をあげた。「みんな感じたか?」
 ドレイファスが、不安のにじむ顔で見まわした。
 彼らは一日ずっと微弱な群発地震を記録していたが、それは非常に敏感な地震計と犬にし
かわからない程度のものだった。

 ダンテズ・ピーク・ハイスクールの体育館では、聴衆がそわそわとささやきはじめた。そ
のとき、もう一度、小さな揺れがあった。
「みんな、どうか落ち着いてください」ハリーがいった。「冷静でいればだいじょうぶです。
では、出口に近いかたから……ゆっくり出ていってください」

999 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 21:22:14.26 ID:aF6+V4yPa
 また揺れた。こんどは大きかった。
 だれかが悲鳴をあげた。不意に、山火事のようにパニックがひろがった。集まったひとび
とが、出口へ殺到した。
 バスケットボールのゴールが、激しく揺れた。旗がたるきから落ちた。

1000 :◆p132.rs1IQ:2023/05/20(土) 21:24:54.33 ID:aF6+V4yPa
華氏451度
レイ・ブラッドベリ
宇野利泰[訳]
p183
 モンターグの耳のなかで、蛾が羽音を立てた。
 ――モンターグ、聞くんじゃない! こいつは、水をかきまわして、泥だらけにする!
「ほう、ばかにおびえているじゃないか」と、ビーティはつづけた。「むりもない。きみが頼り
にしている書物の知識を逆用して、きみをやりこめようというんだからな。どこから攻めてこよ
うとも、おれはおそれるものじゃない。きっさきはみんな、受けとめるぞ! およそ本ぐらい、
裏切り者はないんだ。援助してもらおうと思っていると、どっこい、あべこべに、敵方になる。
だれだって、利用することはできるぞ。ところが、つかえばつかうだけ、泥沼のまん中で、うご
きがとれなくなるのが落ちさ。名詞、動詞、形容詞の大波におしながされてしまうだけよ。
 まあ、そういったわけで、おれの夢は、おれが《火トカゲ》に乗りこんで、きみにこう話しか
けるところでおわった。おい、モンターグ、おれといっしょにくるか? とね。するときみは、
すなおに乗りこんできた。そこで、おれたちふたりは、しずかな祝福にみちたこの役所へもどっ
たので、万事、平和におさまったというわけさ」
 そしてビーティが、にぎっていたモンターグの手首をはなすと、その手はどすんと、テーブル
の上に落ちた。
「おわりよければ、すべてよしだ」

1001 :1001★:Over 1000 Comments
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

総レス数 1001
749 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★