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本能のままに生きた母

1 :次男:2018/05/22(火) 07:10:19.29
俺の母親の話をしたい。

幼き頃、我が家は七人家族だった。
母方の祖父母、両親、姉、兄、俺。
まぁ、昭和末期によくある、核家族とは無縁の至って普通の家庭だった。

父は所謂サザ○さんのマスオさん状態で、養子。
この事がのちに俺の家庭環境をややこしくする要因の1つになる。

幼い頃は本当に普通の家庭だった。
俺は末っ子なので、皆んなに可愛がられながら育つ。

家族七人もいると、多少の派閥みたいなものも生まれがちだ。
例えばウチの場合は祖母は姉を可愛がり、祖父が兄を贔屓する、みたいな。

そんな中、俺は家族の誰からも愛されw順調に幼少期を過ごしていく。
他の家族もなんら変わらない様に生活していた様に思う。

そして母の本能が覚醒する最初の出来事があった。

112 :次男:2018/07/11(水) 23:07:06.58
111の続き

しかし、夢ではなかった。

あの時ほど、「夢だ!良かった!」と思ったことは後にも先にもない。
でも、夢ではなかった。

そう思った刹那、正面にある病院待合室の無機質な時計が先程から大して進んでない時刻を指しながら動いており、俺の隣ではか細く検査の詳しい結果を待ち続ける母の弱々しい姿があった。

いい加減、待たされ疲れ、たまに通りかかる看護師らしき人に声をかけたりしたが、そうした所で物事が早く進むこともない。

そんしながら、徐々に俺も母も軽い冗談的な、小笑を交えながら明るめな話もできるようになって来た。

今更だが、母はネアカと言って良い女性だ。
俺も少し血を引いているのか、文句や悪口的な事は言いながらも、最終的にはお笑い話で終わらせる、というような比較的ポジティブな思考、話術ができる方だと思っている。

この時も、待ち疲れ、ネガティブでいることにも疲れ途中から母とぶつぶつ待たされてる事の文句など言いながら、2人で軽く笑いながら話せるようになっていた。

朝から来た病院で、時刻はもう夕方にさしかかろうとしていた。

やっとお呼びがかかり、この後の流れを医者から聞くことになるが、当然のように即入院。
出来る限り早い段階で即手術となるそうだ。

末期癌といって差し支えないと思い、末期と前述したが、医者からは末期癌という単語は使われなかった。
しかし、ご家族などが癌にかかったりでご存知の方もいると思うが、癌の進行度を4つの形で表す言葉で、ステージ4だと言われた。

ステージは1〜4の4段階で、1が一番軽い症状らしい。
要するに末期だという事。

続く

113 :次男:2018/07/11(水) 23:29:08.45
112の続き

ここで癌のステージという目安を簡単に説明させてもらうが、
ステージ1  この先5年間の生存率99% ほぼ治る
ステージ2  この先5年間の生存率85% これもほぼ治る
ステージ3  この先5年間の生存率75%  頑張れば治る
ステージ4  この先5年間の生存率15%  急に望み薄…

こんなような感じ。多少%に誤差があるかも。
母はステージ4。これは待合室にあった冊子を読んだ時点で、俺には絶望的に感じた。
こうなったら、是が非でも15%の側に入るしかない。

兎に角、手術をして、大腸に出来た癌を摘出することになった。

急な入院&手術&癌告知に兄弟や身内、旦那も北国から駆けつけ家族総出で戦闘モードに入る。
と言っても、実際戦うのは母本人と執刀する医者だけれども。
確か1週間ほどで手術をして、手術はまあ成功。
実際腹を切ってみて、開けてみないとわからないことも多いらしく、最悪の場合は開けてみたら手のつけられない状態なんて事もあるらしい。

だが、幸いにも母の癌は取り除かれた。
術後、医者の話を旦那を始め俺や兄も一緒に聞いた。

続く

114 :次男:2018/07/11(水) 23:30:42.72
113の続き

112の続き

要約すると、今回の手術は成功し、今現在悪い所は取りました。
しかし、癌の怖い所は、癌細胞という奴は血を乗り物にして体の色んな所へ飛び移ってしまう。俗に言う癌の転移という奴だ。
そればかりは、今後の経過で発覚していかないとわからないもので、今現在いくら見える部分で癌を完全排除出来ていたとしても、いつ再発してしまうか、それもどこで再発してしまうものなのかもわからない。

その転移を防ぎ続けるために、抗がん剤治療などその他の癌治療というのを続けていかなければならない。
それが完全に完治と言えるレベルまでになる目安が、前述したステージ目安にも出てくる5年目安だとの事。
5年経って何もなければ完治、再発、転移してしまう場合はその5年間の間にまた癌になる、というような感じらしい。
俺の解釈で申し訳ないが、母の癌について簡単に明記させてもらうと、こんな感じであった。

続く

115 :次男:2018/07/11(水) 23:46:51.85
114の続き

イマドキの医学というのも大したもので、母の癌手術が終わって2.3日もすれば退院していた。

その後も抗がん剤治療などしながら、再発を抑えつつ治療に勤しむ。

この間、スナックも閉めていて、今後の営業をどうするか?と話し合ったが、店に復帰する、というのも一つのモチベーションにもなるだろうから、と、くれぐれも無理はしない事を条件に体調が戻り次第、スナックへも復帰して営業もゆっくり続ける事となった。

やがて数ヶ月が過ぎ、順調に体調も戻り、母も気力を回復してスナックを再び営業出来るまでになった。

この間も、定期的に病院へは通い、抗がん剤治療などできうる限りの治療もしていた。

旦那が癌に効く温泉(湯治場?というのか?)も見つけ、やや遠い地方だったが連れて行ったり。

以前より何かと気を使わなければいけなくなったが、ともすれば癌もこのまま何事もなかったかのように完治するかも?と思うところまで来ていた。

続く

116 :名無しさん:2018/07/12(木) 12:04:52.03 ID:gBgT42Ib8
続くよな!
続くんだよな!!
まだまだ終わらんよな!!!

117 :次男:2018/07/12(木) 19:45:31.19
>>116
ご心配なく!まだ続きますよw


115の続き

この期間、数ヶ月に一度、抗がん剤治療を受け、その時の検査で<腫瘍マーカー>なる数値も出されていた。

この腫瘍マーカーがどの程度の物なのか未だにわからないが、検査の度に母から送られてくるメールに、

母「今日も腫瘍マーカーが〇〇下がってた!」

などと、着々と完治に向かっている様子が伺える連絡があり、その都度
俺「良かったね」
と返事をしていた。

これは湯治場の効果もあり、癌に勝ったのでは…

と思い始めていたが、最初の手術から約一年が経った頃、同じ大腸内での再発が発覚してしまった………

続く

118 :次男:2018/07/12(木) 19:53:46.31
117の続き

初めに癌が発覚した時よりは、心構えもあったので衝撃性はなかったが、それでもショックはショックであった。

そして前回と違うのは、一年に渡る抗がん剤治療も母の体力を相当奪っており、今回発見された場所も以前より難しい場所にあり前回よりも手術も難易度がある、との事。

前回の時も記したが、腹を開けてみないと…という確率も今回の方が悪いらしい。

即ち、手の施しようがない、という場合も最初の手術の時よりもあるらしい。

とはいえ、何もしなければどうにもならないので今回も手術に臨む母。

この時の手術は、予定より大幅に長引き、昼から始め夕方には終わる予定が、仕事を終え夜に駆けつけた俺が病院についても手術が終わっていなかった。

続く

119 :名無しさん:2018/07/12(木) 20:57:46.07 ID:d/8GeRfN9
今追いついた!続き待ってます。

120 :次男:2018/07/13(金) 00:44:54.49
>>119
寝る前に少しだけ続けます!


118の続き

とっくに終わってるはずの時間でも手術が終わっておらず、俺も些か「今回はヤバイのか…」と少し不安が増幅した。
ただ、腹を開けてみて「ダメだ!」となっていないのは確かだ。

ひたすら、待つしかない。

俺が駆けつけてから1時間ほどもするとやがて、手術が終わった。
長引いた理由の一つとしては、今回の場所的に癌を摘出した後に膀胱ら辺に負担がかかる為、術後に尿袋?を脇腹に取り付け、尿を人工的に出すようにするか?という判断があった。

それを母が拒否したために腸をアレコレ切ったり繋げたり、複雑な手法を取らなければいけなくなった事も要因であった。

それでも、執刀医の頑張りと母本人の踏ん張りから手術は無事に成功。

癌を取り除く医師と、腸を繋げる医師とが別で2人がかりでの手術となった事なども長時間に及ぶ大手術となる要因でもあった。

2人の医師に経過と手術の成功の説明を受け、安堵する我ら身内。

大手術の後だけに前回より少し時間は要したが、退院も無事に終え母は再度、スナック復帰に向け抗がん剤治療など闘病生活を送り始める。

続く

121 :次男:2018/07/13(金) 00:52:12.78
120の続き

こうして闘病生活を続けながら、なんとか普通の日常生活を取り戻しつつ、スナックを以前よりは休みながら開けられるようになった。

旦那とは湯治場へ行ったり、暇を見ては昔からよく行っている旅行を、今までより噛み締めるような思いで満喫したりしていた。

相変わらず続ける抗がん剤治療も相当に辛いらしく、何度か母も「もう、抗がん剤治療やめようかな…」と弱音を吐いていた。

実際、前回の時より今回の方が重症だったため、抗がん剤治療もキツくなり、母の髪の毛はみるみる抜け落ち、一時期はほぼ坊主に近い感じになってしまっていた。

よく話には聞いたりはしていたが、実際に自分の母親の方がどんどん無くなり、痩せていたのも含めて骸骨のような姿になってしまって、俺はなんとも言えない気持ちになった。

60半ばくらいになっても女性である母も、髪の毛がなくなっていくのは相当に辛かったと思うが、それでも、数ヶ月経つと髪の毛もまた生え始め、順調に回復への道を歩き始めていた。

続く

122 :次男:2018/07/13(金) 01:04:08.46
121の続き

この頃、俺的にもう一つの葛藤があったのが、母が続けているスナックに、身内が訪れてくれた時である。

元々結びつきの強い、母の従兄弟にあたるオジオバ連中が、母の見舞いがてらスナックに来てくれた。

だがそういう時は大概皆がその場での楽しさをいつまでも続けたいと思うあまり、母の帰りも遅くなってしまうのだ。

以前よりスナックも早い時間に閉めて極力身体に負担のかからないようにしていたのだが、こーゆー身内の集まり的になってしまうとオジオバ連中も帰りたがらない。

母もいつ別れが訪れてしまうかわからない不安からか、この一瞬を1秒でも大事にしたいかのように店を閉めようとしない。

俺はなるべく夜、車で迎えに行ってあげてたのだが、身内が来てくれてる日はほぼ俺からの「もう閉める?迎えいく!」というメールに対し「まだみんないる!まだ閉めないから来なくていい!」という返事が来て、最終的には「遅くなるからタクシーで帰る!」となっていた。

母の身体を思えばいくら名残惜しくても早めに店は閉めて身体をいたわって欲しかったが、滅多に会わないような身内連中と名残惜しく、今という時を共に過ごし続ける気持ちも痛いほどわかったので、俺としてはやきもきするしかなかった。

続く

123 :次男:2018/07/13(金) 01:11:45.00
122の続き

そうして数ヶ月が過ぎ、相変わらずの抗がん剤治療なども続けて、その度に「また腫瘍マーカー下がりました!」と母からの朗報に少し安心する、という日々を繰り返していく。

この間、癌の再発はなかったが時折、腸閉塞の手前?くらいな症状になってしまい、少しの入退院を何度か繰り返していた。

特に、湯治場へ行くのに長距離移動して遠い地方へ行った時など、母の体調が悪くなり、そのまま現地で入院、腸閉塞のカラミだった、とゆー事も増えていた。

まあ、これは尿袋を拒否し、無理くり腸を繋げまくった報いのようなものだ。

そうして二度目の手術から1年が過ぎ、幸いにも癌の転移・再発はなかったものの、辛い抗がん剤治療などの闘病生活に対して、ついに母の体力に限界が見え始めだした。

続く

124 :名無しさん:2018/07/13(金) 18:06:30.53 ID:HSeTAPe8W
ゆっくりで良い

待ってるよ

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